『カムイロキの由来』


 
 石狩と十勝の国境である狩勝峠から遠望するとき、東方に横たわる数条の台地があり、その中に、何カ所もの黄赤色の崖崩れが見ることができる。これをアイヌ人は「ウェンシリ」と言い、人の寄りつけないところから、悪いところとして名付けていたが、土地の人は一様に「クッタリガンケ」とか「十勝川ガンケ」と呼び、その裾を十勝の母なる川と言うべき十勝川が滔々と流れている。このガンケ(崖)の長さは約4キロメートルにも及び、その上流付近は特に厳しく屹立し、いずれも人間を寄せ付けない威厳すら感ずる。

 

 徳川幕府の命を受け、蝦夷地山川地理取調役として、蝦夷地(北海道)の探査に携わった松浦武四郎は、安政5年(1858年)3月14日の6回目の探査の時、空知川を渡り山々を越え十勝に分け入った。和人として内陸部の十勝に足を踏み入れたのは、これが最初だったという。この調査には、函館奉行の石狩下役1名とアイヌ人10人とされており、狩勝(この呼び名は後年つけられた)の峠に立つとき、眼前に展開する大樹海とその彼方に横たわるガンケを眺望し、感嘆の声をあげたとか…。これを目標にして踏査したと日誌にしたためられている。

 

 「本川(十勝川)の幅およそ50間(約90メートル)、崖の高さ数十尋(約100メートル)赤石まざりに頂き平に崩れており川は渦をまきて吼々として大波をたてて流れ、峨々たる岸壁の灰白色なる大岩の半腹に洞穴あり、これには神霊宿ると言い伝えあり、よって此処へは行くことが出来ない。此処より木幣を奉り礼拝するとかや。案内人のアイヌ人はこの地を『カムイロキ』と言えり、この風景実に筆紙に及ぶ処にあらず」と、絶賛の記述をもって徳川幕府に報文している。

 

 カムイロキとはアイヌ語で「熊の越年するところ、神様がお座りになっているところ」という意味であり、アイヌ伝説で言い伝えられたこの地は、十勝川筋の霊地であったようだ。これまでこのことについて、いろいろと記事があり、また「鬼斧するごとく、廉広鬼面に似、山皺折帯かと怪しまる」とも言われ、まるで鬼が斧を振るったような、ぎざぎざの岸壁、鬼の顔にも似たようにも、あるいは帯を折りたたんだようにも見える。などとも表現されている。

 

―中略―

 

 アイヌ伝説として語られるカムイロキは、神聖な場所であるとされ、近づいてはならぬ所だった。

 

 それを十勝日誌は「昔一人の若者がこの穴に入り、とうとう帰って来なかった。その息子もまた試みたが戻って来なかった」と言う記事があり、また「このカムイロキは昔、フレウ(フリイカム)という巨鳥が住んでいた所で、フレウは毎日遠く海まで行って、鯨や魚類を穫って食べ、その食べ残しや骨を、山のくぼみに投げ散らかしていたが人間に対していたずらはしなかった。ところがある日のこと、フレウがいつも飲み水にしていた綺麗な流れの小川を、メノコ(アイヌの娘・女)が尻をまくって渡ったのでフレウは大変怒ってメノコをくわえ、カムイロキに連れていき、そこへ投げ捨てた。フレウはこんな汚された所に入られないと、遠くの国へと飛び去ってしまった。絶壁の上に残されたメノコは、帰るにも帰られず、フレウの食べ残した骨などをしゃぶっていたが、それっきりどうなったか分からなくなってしまった。

 

 それから数年たった頃、一人の若者が熊狩りに行き道に迷い、鯨の骨など散らばっているところへ行ってみたら、ふしぎな女が現れ「連れていってくれ」といった。気味が悪いので一目散に逃げ帰ったものの、若者はそれから間もなく病気にかかって死んでしまった。それ以来コタン(アイヌの部落・村)の人たちはここを「ウェンシリ」と言うようになったが、そこには今も、フレウの棲んでいた穴が残っているという。」(アイヌ民話より)

 

 

 このように、屈足ガンケの一角であるカムイロキは、アイヌ人が発見し、松浦武四郎によって世に知らしめた地名であり、いろいろな言い伝えの中に存在し屈足に住む人々ばかりでなく新得町全体のシンボルでもある。

 

―しんとくの史跡・H6/3新得町郷土研究会発刊― から